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02月13日 ■ 姫丸二季


02月13日 ■ 姫丸二季



雪。
雪だった。
音もなく、未明から降り始めたであろう白のそれは、灰色のコンクリートの上にうっすら、層として重なろうとしていた。
道理で寒いわけだと苦笑を漏らす。
袷の着物に長羽織を纏う。それだけでも随分と違った。
【春夏冬中】と書かれた札を店の入り口にかける。黒か焦げ茶かで迷うような色で出来た木の札は、以前友人の千早凪がこしらえてくれたものだ。
秋が無いので【商い中】という意味だが、果たしてこの寒空の下、早朝から呉服屋を訪ねる客があるとは我ながら思えない。
それでも7時の目覚めと共に店を開けることが日課となっていたし、飛び込みで着付けを希望する客も、いないわけではない。
この店はおれ1人で切り盛りしている。
店を開けつつ、店先から「御免下さい」と声が掛からない限り、ゆっくりと身支度を整えていられるのは、気楽だし、都合もよかった。
改めて木札を見やる。友人の手によるそれは、一種の守り札のようで、なんとも心強い。墨汁で認められた毛筆の字の上を、おれは右手でなぞった。
おれが千早凪と知り合ったのは、今から7年も前のこと。
業界第一位のスーパー『horizon』の名古屋店にテナントとして入店していた呉服屋チェーン『ゑび寿(えびす)』に勤めていた時だった。


―7年前―

社員食堂には暗黙のルールがあった。
直営の従業員が5列中窓寄り3列分を陣取るように座り、テナントに籍を置く者は隅の方で肩身狭く食べるのが常だった。
逆らうのもばかばかしく思え、『右に倣え』でおれも隅の、部屋からすれば暗い位置で毎日食事を取っていた。
着物にコンビニ弁当という組み合わせが不釣り合いのような気がして、なるべく弁当を持参するようにしていた。
今日は細かく刻んだ生姜入りの稲荷寿司を握り、唐揚げをふんだんに詰めて来た。バランスより、好物重視。それがおれのポリシーだ。
「あーっ、姫丸クンだ。や~ん、やっぱり着物すっごく似合うー! カッコイーなぁ」
思わず稲荷寿司を落としそうになった。食堂中に響く、甲高い声で人の名前を呼ばれたら、誰だって困惑するだろう。
しかも、ただでさえ悪目立ちする着物だから。実際ちらちらと数人がこちらを振り向き始めていた。おれは目の前の彼女を恨めしく思った。
「……長瀬さん……でしたっけ?」
一体、何の用なんだろう。
「あっ。覚えててくれたんだ~? 結衣、嬉しいな~!」
屈託なく笑う彼女のことを、おれは名前と所属ぐらいしか知らない。女性に人気のインナーショップ店員だったと思う。
記憶に自信がないのは、彼女との出会いが今日で3度目だからだ。
「覚えて貰ったついでに、あたしとメアド交換して欲しいな~。SNSでもLINEでもいいよ~?」
「は……?」
「姫丸クンって鈍いのかな? それともウブ? だって姫丸クンかっこいーんだもん。彼女いなかったらあたしが立候補する! なんちゃってー」
そういうことか。合点がいったと同時に、再び困惑してしまう。この手の問題には厄介さを覚えるのだ。
特別な女性などいないし、好意を寄せている女性もいないのだが、将来を考えると軽々しく付き合えないのが現状だ。 
ゆくゆくは実家の呉服屋を手伝って貰わなければならない。相手選びは慎重にならざるを得ないのだ。
この時点で彼女を判断するのも気がひけるが、凡そ呉服問屋に嫁ぎ、脈々と受け継がれてきた『しきたり』を守ってくれるとは到底思えなかった。
肩からずり落ちたニットのトップス、ちらりと見えるブラらしきものの紐、冬だと言うのにお尻さえ見えかねない短すぎるジーンズのパンツ。
和装女性の真逆に位置するであろう魅惑の生足がにゅっと伸び、10cmはある厚底靴を履いている彼女に、果たして女将の座が務まるだろうか。
人を見た目で判断するな? 確かにそうだ。
だが彼女は伝統文化である着物を前に、「丈もっと短くしたいな~! 裾をレースにしちゃおうか!」と言い出しかねない危うさを孕んでいた。
駄目だ、この子を彼女にするわけにはいかない。
「申し訳ないけど、あなたと連絡を取るつもりはないんだ」
言った途端、相手の顔が豹変した。ぞくっとするほど冷たい目になり、全身から『断るなんてナニサマのつもり?』と刺すような空気が迸っている。
「割り込み失礼――。すまないが、彼は婚約中の身なんだ。婚約者に操を立ててる。悪いが他を当たってくれないか」
突然、背後から声がした。おれと長瀬さんは同時に彼を見た。
スーツを着こなしたその男は、まるでオーシャンズやレオンなどと言ったメンズ雑誌から抜け出したような、目を見張る美形だった。
誰だ……? おれは知らない。見たこともないし。それは長瀬さんの方も同じだったようで、得体の知れないイケメンを前に戸惑っているようだった。
「これが姫丸さんの婚約者。2人が並んだらお似合いだろう?」
そう言って1枚の写真を長瀬さんの顔面に近付けた。
おれには写真が見えなかったが、彼女はやがて唇を噛み締めると、おれと男性を睨み付けてから踵を返し、食堂から出て行った。
その背を安堵の気持ちで見送りながら、お礼を言う。
「有難う御座います。その……助かりました」
そして彼に向き直る。彼は一番近くにあった椅子に腰掛けた。おれが弁当を食べていた席の隣りに。
「いや。次第に雲行きが怪しくなってきたのが分かったからさ。彼女と付き合えない理由があったんだろ?」
「何故そう思うんです?」
「なんとなく。強いて言うなら、きみの立ち居振る舞いが、老舗の呉服問屋然としてることに違和感を覚えたからかな。
今はテナントの『ゑび寿』で働いてるみたいだけど、実際はどこかの呉服問屋の若旦那かと思って」
おれは面食らった。一体何者なんだ、このひとは。
「凄いな……。当たりです。確かに実家は創業119年の呉服問屋を営んでいます。
勉強と修行を兼ねて『ゑび寿』に入社しましたけど、ゆくゆくは家業を継ぐつもりで」
「やはりそうか。まぁ俺も似たようなもんだから。『家』に縛られてる。だからピンと来たんだ」
しれっと言ってのけるが、それはそんな簡単に言えるセリフではないのでは……?
それだけ幼少期より、重責を担うことを運命付けられてきたのだろうか。
だから彼は若干諦めに似た境地で吐き捨てるように言ったに違いない。
「機転に感謝します。そう言えば、何の写真を長瀬さんに見せたんです?」
彼の手には、2階の写真屋店のロゴが入った紙袋があった。長瀬さんに見せたのは、その中から引き抜いた1枚だったのだろう。
「写っているのは俺の大切な子でね。言っておくが、やらないぞ」
写真の女性に吸い寄せられた。どこかの公園だろうか? 銀杏並木の中、名前を呼ばれ、振り向いた瞬間の画(え)のようだった。
肩より若干長い黒髪を揺らし、白のボウタイブラウスに紺のフレアスカートを穿いた清楚で可憐な女性が、レンズに向かって微笑んでいた。
いや、笑っているのはレンズにではない。撮影した相手……彼を見て、か?
「とても素敵な女性ですね」
「そ、そうか? いや、そう言って貰えると、兄として鼻が高いが……」
……なんだって?
「兄として? ……つまり、この写真の女性は、あなたの妹さん?」
「そうだが」
「あなたの彼女では?」
「……? おかしなことを言うな? 実の妹と付き合うわけないだろう」
「え、でもさっき『俺の大切な子』って……」
「そうだが、何か?」
……あぁそうか、これが世間で言うところのシスコン、というやつなんだな。本当にいるんだ、自分の妹を溺愛する兄というのは。
「秋に家族旅行で岡崎に行った時の写真でね。出来を眺めていたんだが、絶妙なタイミングだったな。レキのお陰で助かった」
そう言って、再び写真の中の妹に魅入る変人……いやいや、おれにとっての恩人。千早凪とは、こうして出逢ったのだった。


―現在―

「結城紬とは渋いな」
昔を懐古していたからだろうか。実際に凪の声がしたような気がして、一瞬自分の頭がこんがらがった。
だがやはり本人のものだった。凪だ。あの時はスーツ姿だったが、今はカジュアルな出で立ちでおれの前に立っていた。
「凪! どうしたんだ、こんな朝早く?」
「今日は休みなんだ。なんとなくふらりとこっちに足が向いて、それで。それと、誕生日おめでとう」
手に何か持ってるなと思ったら、おれへの土産だったらしい。差し出されたそれを有り難く受け取った。
「凪はいつも神出鬼没で、思いがけないサプライズを仕掛けてくるんだな」
やれやれと苦笑しつつも、凪の優しさが嬉しかった。
「ここは寒いから、店に入りなよ。さっき朝食用にポタージュを作ったんだ。飲むだろう?」
「あぁ。ありがとう」
「……さっき、【春夏冬中】の札を見て、昔のことを思い出してたんだ」
「昔のこと?」
「おれと凪が初めて出会った日のこと」
「あぁ、あれか」
凪は目を細め、口元に笑みを浮かべた。カップに注いだポタージュに視線を落とすも、その目は優しげだ。
「俺も覚えてる。いつかヒメに紹介するよ。妹を」
妹……。
『千早歴』の話題が出たのは、実に3ヶ月振りになる。
凪が起こした『事件』のあらましを11月に聞き、その時に知ったのだ。凪が後ろめたさゆえに歴さんと距離を置いていたことを。
horizonにいた頃は、毎日耳にタコが出来るくらい聞かされていた。「レキが」「レキは」と。
ところが凪がユナイソンに転職してからは一切歴さんのことを口にしなくなった。
きっとそれは良心が疼いていたからだろう。極力妹のことを考えないようにしていたに違いない。
そうでもしなければ凪のことだ、精神をとことん病んだだろうから――。
「久し振りだな。凪の口から歴さんの名前を聞くのは。……大切な妹だろ。いいのか、おれに紹介して」
「お前ならな。ヒメならいい」
「そうか」
しゅわしゅわ、とストーブの上のやかんが音を立てる。おれはひとりごちた。
「温泉に行きたいな」
「温泉か。いいな。いつか行こう」
「あぁ」
おれが何気なく漏らした言葉を、凪は覚えていた。
おれが下呂温泉で歴さんに出逢うことになるのは、今日から4ヶ月後のこと。だが今は当然、そんな未来の話など知る由もない。
「なぁ、ヒメ」
「ん?」
「……積もりそうだな」
「そうだな」
窓から見えるは雪。
そう、雪だ。
深々と降り続く雪は、灰色の地面を白銀へと塗り替えてゆく。
凪を見やる。
おれはふと、凪が抱えている仄暗い闇、痣のような過去を、雪のように上書き出来る存在になれたら、と思った。
不器用で、まっすぐな男。それが千早凪だ。
見ていて危なかしい。けれどおれには大切な、見放せない親友。


2012.09.03
2020.03.15 改稿


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